両者はともに日本人独特のケガレ思想に基づいているのだ。
まずケガレ思想を説明しよう。
今、父親が娘に、「自分が長年使ってきた箸を譲るから、これからはこれを使いなさい」と言ったとしよう。娘はそれに頑強に抵抗するに違いない。
その理由は「きたないから」だろう。
しかし実際には、箸は十分に洗えばいいし、熱湯消毒だってすればいい。
つまり、科学的に「きたない」理由はない。
日本人はこのような場合、物質的にはなんら汚れがないにもかかわらず、精神的にケガレというものを感ずるものらしい。これがケガレ思想だ。
これは日本独特のことらしい。
現に、洋食にも中華料理にも、食器を個人持ちにするという発想すらない。
そのケガレの最たるものが死穢である。そのため、死体を扱う職業は、歴史的に激しい差別を受けてきた。これが部落差別である。
生粋の日本人が、たまたまそのような職業の家に生まれただけで激しく差別されたのだ。
確かに、昔は死体から伝染病が伝染ることがあったかもしれないから、死体を忌避するのはわかる。しかしそれは、科学の進んでいない時代の話であって、そのケガレを精神的なレベルで感じるのは、まったく不合理である。
日本のケガレ思想の特質は、科学的には根拠のないケガレであっても、精神的に実在のものとして捉え、忌避することにあるようだ。
これと同じことが、反原発騒ぎで起きている。
これまで、低レベル放射能に対する日本人の異常な反応を全く理解できなかった。しかし、ケガレに関する話を読んで、はたと膝を叩いた。
いくら科学的に根拠がないことがわかっていても、少しでも放射能が検出されれば、それはケガレとなるのだ。
そして、ケガレた地域で生産された農作物はケガレていると感じるのだ。
つまり、以下の様な図式である。
放射能→ケガレ
福島県→放射能が検出された地域があるからケガレ
福島県で生産された農作物→ケガレた福島県で生産されたからケガレ
これは全く非科学的な論理である。
しかし、日本人にとっては、論理を超えて直感的に感じるものらしい。
反原発を唱える人は、管理されている放射性物質さえ、ケガレたものとして忌避すべきと考えているのだ。そして、放射性物質を内包する原発そのものも。
ケガレを忌避するという発想は、部落差別と変わらない。
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