日本兵が天皇陛下のために自殺しろと強制したと考えるのは、確かに無理がある。
しかし、情報の漏洩を恐れて自殺を強制したという新聞記事には瞠目した。合理的な理由だ。
したがって、日本軍が住民を投降でなく自殺へ追いやったことには事実だろう。
それが、間接的なマインドコントロールによるとしてもだ。
このことを教科書から削除するのは政治的意図によるものだ。日本がおかしくなり始めている。
監視を強めなければ。そろそろお灸をすえてもいい時期だ。
木曜日, 6月 28, 2007
火曜日, 12月 05, 2006
月曜日, 11月 13, 2006
日本人のいじめ好き
いじめを原因とする自殺について。
確かに、いじめに対する捉え方など、教育側の問題はある。
しかし、日本人のいじめ好きの体質はどうも変わらない。
いじめが発覚したときには、校長をいじめる。いじめやすいからだ。
その一方で、なぜかいじめる側が俎上に上ることはない。「自殺をするな」とのメッセージは出されても「いじめるな」とはいわない。
問題は2つある。
ひとつは、明らかに犯罪的ないじめっ子がいる。これはいじめ以前の問題だ。社会として厳正に対処すべきだ。
もうひとつは、いじめに対する感受性の低さ。いじめの苦しさはいじめを受けたものにしかわからない。
いじめる側やその親に疑似体験でもしてもらうしかない。いじめっ子をいじめるキャンペーンでも張ったほうがよい。それが理不尽であればあるほど、いじめの本当のつらさを思い知らせることができるだろう。
「いじめに負けるな」などと言っているやからは、いじめられたことのない甘ちゃん・ぼんぼんか、よほど人間的な感受性のない欠陥人間だろう。
いじめに対するコメントを見ると、その人間がいじめる側かそうでないかがよくわかる。そして、いじめっ子が成功している例が如何に多いかがわかるだろう。それが日本という社会なのだ。
確かに、いじめに対する捉え方など、教育側の問題はある。
しかし、日本人のいじめ好きの体質はどうも変わらない。
いじめが発覚したときには、校長をいじめる。いじめやすいからだ。
その一方で、なぜかいじめる側が俎上に上ることはない。「自殺をするな」とのメッセージは出されても「いじめるな」とはいわない。
問題は2つある。
ひとつは、明らかに犯罪的ないじめっ子がいる。これはいじめ以前の問題だ。社会として厳正に対処すべきだ。
もうひとつは、いじめに対する感受性の低さ。いじめの苦しさはいじめを受けたものにしかわからない。
いじめる側やその親に疑似体験でもしてもらうしかない。いじめっ子をいじめるキャンペーンでも張ったほうがよい。それが理不尽であればあるほど、いじめの本当のつらさを思い知らせることができるだろう。
「いじめに負けるな」などと言っているやからは、いじめられたことのない甘ちゃん・ぼんぼんか、よほど人間的な感受性のない欠陥人間だろう。
いじめに対するコメントを見ると、その人間がいじめる側かそうでないかがよくわかる。そして、いじめっ子が成功している例が如何に多いかがわかるだろう。それが日本という社会なのだ。
金曜日, 9月 29, 2006
土曜日, 9月 16, 2006
松本智津夫の死刑確定
松本智津夫の死刑が確定した。報道されているのが事実だとすれば、自業自得としかいえない。弁護団も、単に政治的に利用したかったようだから、妥当な結末といえる。
かくなる上は、一刻も早く執行してもらいたい。
1990年代前半、秋葉原には異様な光景が見られた。
二人ずつ、若い男が向き合い、何かを異様な大声で叫びながらビラを配っている。声は嗄れはて、つぶれて、何を言っているのかさえわからない。あまりの異様さに、道行く人は誰一人ビラを受け取ろうとしなかった。男達は、通行人を相手にするというより、お互い向き合って、自分達だけで延々と声を張り上げ続けていた。それは、傍目にも痛々しい光景であった。
ビラは、近くにあるオウム経営のPCショップのビラだった。
最初は、普通のショップだった。ビラ配りの若者はやさしい声をかけてきて、「近くにオープンしたので是非立ち寄ってみてください」と言った。店に行ってみると、若い店員達が、親切に商品の説明をしていた。「もしよろしければ、買ってください。」、礼儀正しかった。
しばらくして、そのショップがオウムのショップだと言うことがわかった。もちろん、二度と行く気はなくなった。誰もがそう思っただろう。そして、ビラ配りの若者がおかしくなった。
はじめはショップにきてもらいたくてビラを配っていただろう。しかし、そのうちビラを受け取る人がいなくなると、ビラを配ることが「修行」になった。のどをつぶし、自分を傷つけ、声を張り上げ続けることが、目的となったのだ。二人で行動していたのは、互いを監視するためだろうか。
最初のやさしく常識的な対応と、この異様な光景は、どうしても結びつけることができなかった。
これがオウムだった。その後さまざまな事件が起こり、オウムの仕業だと言うことがわかったとき、私はそれをごく当然に受け止めた。その得体の知れない異様さと、身内を傷つけてはばからない様子は、絶対に許容すべきでないものとして、深く脳裏に刻まれていた。
だから、普通の人は誰しも、松本智津夫が死刑になるのを当然だと受け止める。
死刑確定に一役買ってくれたのであまりいいたくないが、今回弁護団の対応はあまりにひどかった。再審申請など、くだらないスタンドプレーは、是非しないでほしい。それが全日本人の総意だ。
かくなる上は、一刻も早く執行してもらいたい。
1990年代前半、秋葉原には異様な光景が見られた。
二人ずつ、若い男が向き合い、何かを異様な大声で叫びながらビラを配っている。声は嗄れはて、つぶれて、何を言っているのかさえわからない。あまりの異様さに、道行く人は誰一人ビラを受け取ろうとしなかった。男達は、通行人を相手にするというより、お互い向き合って、自分達だけで延々と声を張り上げ続けていた。それは、傍目にも痛々しい光景であった。
ビラは、近くにあるオウム経営のPCショップのビラだった。
最初は、普通のショップだった。ビラ配りの若者はやさしい声をかけてきて、「近くにオープンしたので是非立ち寄ってみてください」と言った。店に行ってみると、若い店員達が、親切に商品の説明をしていた。「もしよろしければ、買ってください。」、礼儀正しかった。
しばらくして、そのショップがオウムのショップだと言うことがわかった。もちろん、二度と行く気はなくなった。誰もがそう思っただろう。そして、ビラ配りの若者がおかしくなった。
はじめはショップにきてもらいたくてビラを配っていただろう。しかし、そのうちビラを受け取る人がいなくなると、ビラを配ることが「修行」になった。のどをつぶし、自分を傷つけ、声を張り上げ続けることが、目的となったのだ。二人で行動していたのは、互いを監視するためだろうか。
最初のやさしく常識的な対応と、この異様な光景は、どうしても結びつけることができなかった。
これがオウムだった。その後さまざまな事件が起こり、オウムの仕業だと言うことがわかったとき、私はそれをごく当然に受け止めた。その得体の知れない異様さと、身内を傷つけてはばからない様子は、絶対に許容すべきでないものとして、深く脳裏に刻まれていた。
だから、普通の人は誰しも、松本智津夫が死刑になるのを当然だと受け止める。
死刑確定に一役買ってくれたのであまりいいたくないが、今回弁護団の対応はあまりにひどかった。再審申請など、くだらないスタンドプレーは、是非しないでほしい。それが全日本人の総意だ。
日曜日, 9月 03, 2006
NHKは無責任か傲慢か
「失礼しました」は軽い言葉だ。HNKにはわびる気持ちがないようだ。
ニュースを間違えた時にわびないのは、責任回避の意味があるのかもしれない。
だとすれば、NHKのニュースはその程度の真実度だと心してかかる必要がある。
そうでなければ、たんにNHKの傲慢さを示していることになる。
ニュースを間違えた時にわびないのは、責任回避の意味があるのかもしれない。
だとすれば、NHKのニュースはその程度の真実度だと心してかかる必要がある。
そうでなければ、たんにNHKの傲慢さを示していることになる。
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